世界のすべてを愛したかった

泣きながら「好きだ」と言った記憶がある人は世界にどのくらいいるだろう。きっと掃いて捨てるほどいるだろう。わたしもその、「掃いて捨てるほど」を経験した、ありふれた人間のひとりだ。 ポリアモリー、なんて言葉がわたしの人生に輸入されたのはごくごく最近、30歳も視界に入ってきたここ数か月の話で、肩こりの概念がなかった昔の日本には肩こりがなかったというが、言葉がなければ概念は存在しないのだった。

「月が綺麗ですね」。
今となってはあまりに擦り切れさせられてしまった愛の言葉だが。 10年前、好きな人のもとに向かいながら、恋人に向かって電話越しに呟いた、別れの言葉だった。

あなたのことが好きだけれど、好きな人ができてしまった。人として誠実であるためにはどちらかを選ばなければならない。あなたのことは好きが100あったとしたら100好きだけれど。わたしは、あの人のことを、「愛してる」と思った。あなたには思えなかった。だから、わたしは「愛してる」を選ぶ。ごめんなさい。

18歳とは、こんなにも残酷になれるものだったのだ。これを書いているのは10年以上後の新宿のカフェなのに、18歳の夜から逃げ切ってすっかり大人になったつもりでも、それでも苦しくなってしまう。

初夏の夜、歩くわたしの頭上には月が出ていた。 月が。月が綺麗ですね。 わたしたちはそう言い合った。 わたしは元恋人との電話を切り、電車に乗り、愛している人の胸へ駆け込み、泣いた。好きな人のところで好きな人を思って泣くなんてどうかしている。そう思ったが、それが唯一の、正しくあるための選択だと、信じていた。それが、わたしの愛の黎明期の記憶だ。 愛してると好きに順位をつけるなんて馬鹿げている。誰かがそう言ってくれたらいいのに。10年後のわたしでさえ、何かを言い切ることなんて、まるでできていない。

愛することは意志の力でやめられる。 これは、世界を愛してしまうわたしが、ただ一人を愛するべきだと叫ぶ社会で、決死の思いで摑んだ、残酷な学びだ。

そんな思いを幾度か経て、愛の回線が人よりも多いのかもしれない、と、確信のない世界でそれでも思うようになった。愛しているものを、愛していない、と思い込むことを、わたしのたましいは求めていない。 恋愛感情に限らず、わたしは人との関係を友情/愛情と使い分けずに、愛情ひとつでまかなってしまっているのかもしれない、と思うことがある。人への愛が強すぎる。そのせいでしんどい思いもたくさんしてきたが、それでも。 世界のすべてを愛してしまうなら、愛しきることに決めたのだ。

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神崎琴音